【アンザックデー】とは?在住者が知るべき歴史とこの日の意味する事。

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4月25日はアンザックデー(ANZAC DAY)。
オーストラリア人がとても大事にする有名な日です。

 

オーストラリアに旅行し、スーパーマーケットやお土産屋さんで「アンザックビスケット/Anzac biscuit」を目にされた方も多いと思います。

下記写真は、義母の手作り。↓

「在住者」として「地元の人たち」と共に生活していく中で、きちんとこの日を理解して置く事はとても大事です。

ここでは「日本人在住者として知っておくべきアンザックデー」を自身の復習を兼ねて、その歴史を振り返りたいと思います。

ANZAC(アンザック)とは?

まず「ANZAC・アンザック」とは

Australian and New Zealand Army Corps” の略です。
つまり「オーストラリアとニュージーランド軍団」を意味します。

ANZAC DAY(アンザックデー)とは?

アンザックデーと呼ばれるようになった背景を「オーストラリア政府」のサイトから引用します。

On the 25th of April 1915, Australian and New Zealand soldiers formed part of the allied expedition that set out to capture the Gallipoli peninsula. These became known as Anzacs and the pride they took in that name continues to this day.
1915年4月25日、連合遠征隊として形成したオーストラリアとニュージーランドの兵士たちは、ガリポリ半島の占領に着手した。
これらはアンザックとして知られるようになり、その名前のもと彼らが取った誇りは今日まで続いています。

引用元:Anzac day/ army.gov.au

アンザックデーが、1915年4月25日に「オーストラリアとニュージーランド」の連合遠征隊が、ガリポリ半島(トルコ北西部)の占領に着手した日である事は分かりました。

でも、それが何故オーストラリアの人たちにとってとても大事な出来事の日なのか?

まだオーストラリアに住んで間もない頃の私は、

「戦争で亡くなった方の追悼式」は理解できるけど、「占領着手日」ってなると、そこには「占領された国」が存在する。つまりここでは当時の敵国オスマン帝国「現トルコ」。。。1915年ってことは、第一次世界大戦?

「アンザックデー」自体、学校で習わなかったので、「こりゃ、在住者としてしっかり歴史背景を知る必要があるぞ!」と勉強したのであります。

それでは、それを紐問くべく「アンザックデー」がオーストラリアの人たちに重要であるその歴史背景を振り返ります。

アンザックデーの歴史

イギリスとの強い繋がり                     

オーストラリアは1901年1月1日に イギリスから独立しました。

これによりオーストラリア連邦(Commonwealth of Australia)が成立、内政自治権を獲得しましたが外交権はまだイギリスにありました。

その13年後に「第1次世界対戦」が起きたのです。イギリスが戦うならば我が国も!と参戦する事になりました。

敵対する中央同盟国は「ドイツ、オーストリア、オスマン帝国(現トルコ)、ブルガリア王国」。

ガリポリ半島の上陸作戦とは?                    


オーストラリア含む連合国側は、敵のオスマン帝国の首都イスタンブールの占領を狙いました。

それが「ガリポリ半島の上陸作戦 」と言われるもの。

そこに白羽の矢がたったのが「オーストラリアとニュージーランド軍団」だったのです。

1915年4月25日の朝、アンザックはガリポリ半島に上陸しました。
ところが、敵国オスマントルコ軍は既に待ち受けていて、彼らからの激しい抵抗に遭遇してしまった。。。

「トルコを追い出す」という彼らの計画はすぐに膠着状態に陥りました。
それでも11月22日のイギリス軍が避難を決定するまで、勝利の見込みがない状況下でも彼らは結束して戦い続けたのです。

アンザックの避難が開始したのが12月15日、5泊以上かけて36,000人の軍隊が待機中の輸送船で撤退したそうです。

上陸作戦は失敗しましたが、撤退作戦は計画通りでトルコ軍に気付かれないように比較的順調に進んだと言われています。

ガリポリ上陸作戦は失敗に終わり、双方ともに多大な犠牲者を出し、約8,000人以上のオーストラリア兵が命を亡くしました。

オーストラリア、ニュージーランド、そして敵国として戦ったトルコの人たちにとっても、4月25日は「ガリポリ半島上陸」と「その後の悲劇」のニュース、戦争で亡くなった犠牲者を思い出す日、そして追悼する日となったのです。

更にどんな絶望と苦境の中でも、団結して心を1つにした兵士たちの強い絆精神力を「アンザック魂」として讃えています。

第二次世界大戦後は、ガリポリの戦いに参加した兵士だけでなく「戦争に参加した全てのオーストラリア兵のための記念日」に変わってきました。

そこにはアフガニスタンの任務で犠牲となった若者も含まれます。

第二次世界大戦も含んだ追悼式が意味するもの

ここからが日本人として知るべきアンザックデーの意味です。

第一次世界大戦では、日英同盟を組んだ日本は連合国側でオーストラリアと味方同士。ところが、第二次世界大戦では敵国に!

そもそも第二次世界大戦の始まりは、1939年にドイツがポーランドに侵攻したのがきっかけで、これにイギリス、ソ連、アメリカが連合国として戦う事になったんでしたね。世界史振り返りです。

連合国と敵対して形成されたのが「ドイツやイタリアなどの枢軸国」で日本は今度はこちら側に加わることに。

ドイツが引き起こしているヨーロッパでの戦争中、日本が引き起こしたのが1941年から1943年の間にかけての「太平洋戦争」です。

この標的にオーストラリアも。
ここからは「太平洋戦争」を振り返ります。

その太平洋戦争のきっかけとなったのが「真珠湾攻撃」です。

 

Attack on Pearl Harbor – 日本のハワイ真珠湾攻撃         

1941年12月7日に、日本の空母艦隊が真珠湾攻撃を行い、360機の日本の航空機が米国の船とオアフ島の飛行場を攻撃

The bombing of Darwin -日本のダーウィン空襲攻撃        


真珠湾攻撃から約2ヶ月後、1942年2月19日にオーストラリアのダーウィンを空襲攻撃したのです。

オーストラリアに住んでいると毎年2月19日にはラジオやテレビでもこの追悼式のニュースが流れます。

このダーウィン空襲攻撃後も日本は、どんどん勢力範囲を広げ、1942年3月末までに、オーストラリアのすぐ北に、ラバウルからシンガポールまで、太平洋帝国を制服するべく日本が保有する領土が並んでいました。

多くのオーストラリア人は、オーストラリアも侵略されるのは時間の問題だと信じていました。

アメリカ人の到着                         

当時、イギリスはヨーロッパと北アフリカで、ドイツからの大攻撃に直面していた為、オーストラリアを助けられない状況。

オーストラリアのジョン・カーティン首相はすでに1941年の終わりから自国を守るには新しい同盟国を探す必要があると示していました。

それが米国。

1942年2月、アメリカ大統領フランクリンルーズベルトは、オーストラリアを南西太平洋の主要なアメリカの基地にすることを決定しました。

ルーズベルトは、フィリピンの米国司令官であったダグラス・マッカーサー将軍に、この地域のすべての連合軍の指揮をとるよう命じました。

1942年を通して、オーストラリアは、国に到着するアメリカのサービス要員の増加に合わせて、キャンプ、飛行場、およびその他のさまざまな資料の提供を開始しました。

太平洋戦争の終結                        

こうして米国を主導とする反撃を受けることになった日本

マッカーサーの戦略のもと日本軍は勢力範囲が縮小し、遂には日本の無条件降伏を促す「ポツダム宣言」が発せられました。

でもこれに応じなかった日本。

8月の広島、長崎の原子爆弾投下され、「ポツダム宣言」を受け入れる事に。

1945年9月2日、東京湾停泊の戦艦「ミズーリ」で降伏文書への調印が行われ、ついに太平洋戦争が終結しました。

このように、第二次世界大戦は、「ドイツから始まった枢軸国と連合国との戦い」と、この「日本が引き起こしたアジア太平洋での連合国との戦い:太平洋戦争」をも含むんです。

オーストラリアの第二次世界大戦

このように第二次世界大戦でオーストラリアは、アメリカ、イギリスなどの連合国側であり、この太平洋戦争で日本から「ダーウィン空襲攻撃」を受けた歴史があるのです。

従ってアンザックデーの追悼式の歴史の中では、「日本との関係」が切り離せない事実があります。

ラジオでも第二次世界大戦を振り返る兵役経験者が当時の状況を語る時、「日本の空襲攻撃」が登場します。

”Japanese attacked….”と聞こえる度に複雑な気持ちでした。

「私の祖父は日本人を嫌っていた。」と聞こえてくる。何を言うんだろう?
ドキドキします。

でも続きは、、、

「でもそれは歴史上仕方がなかった。今こうして友好国となっている事に感謝したい。」

と言っている男性のメッセージ。ホッとする。。。

アンザックデーには何が催されるか?

Dawn Service(夜明けの追悼式)                

全国の記念碑で”ドーン サーヴィス”と呼ばれる”夜明けの追悼式”から始まります。

これは、アンザック兵がガリポリ半島に早朝(夜明け)に上陸した時間帯にちなんでいます。地域によって開始時間は違って、4時のところもあれば、4時半、5時半など様々です。

 

Anzac March(アンザックマーチ)                

現役軍隊と元軍人とその親族が集まり、マーチ(行進)に参加します。

このマーチには地元の幼稚園、小学校や高校も参加します。

典型的な儀式                            

典型的なアンザックデーの儀式には、紹介、賛美歌、祈り、演説、花輪の敷設、朗読、最後の投稿、沈黙の期間、起床ラッパ、および国歌が含まれる場合がほとんどです。

記念式典の後、家族はしばしば礼拝の後と同じように、記念碑の名前の横に赤いポピーを置きます。

 

Anzac Day Dawn Service 2022

トルコ人はアンザックデーをどう受け止めているんだろう?

さて、アンザックデーのマーチ終了後に義父母の家に行った時に「日本に対する思い」も含めて義父母に聞いてみました。

「敵対国として攻められて同じく犠牲者をだしたトルコ人はこの日をどう思っているのか?又、空襲攻撃した日本に対して敵対心は強く残っているのか?」

答えは「その頃は仕方がなかった事。それをお互い許す事が出来ているからトルコとも日本とも友好国になっているのよ。」

でした。

’アンザックデーとトルコ’との関係を調べていると素晴らしい記事をみつけました。

訳)毎年4月24,25日はオーストラリアとニュージーランドからの多数の参加者と共にトルコのガリポリ半島でガリポリの戦いの追悼が行われる。トルコ人とオーストラリア人、ニュージーランド人にとって大変重要でまた意味深い日である。これは確かな平和と理解と許しの象徴である。トルコ人、アンザックの精神は永遠にトルコ、オーストラリアとニュージーランドの団結のもと尊敬と友情の絆を続けるであろう。
Every year, on 24-25 April, the battle of Gallipoli is commemorated in Gallipoli peninsula, Turkey with a wide participation from Australia and New Zealand. It is a very important and also meaningful day for Turks and Anzacs and it is definitely a symbol of peace, understanding and forgiveness. The Turk- Anzac spirit will continue with its ties of respect and friendship which unite Turkey, Australia & New Zealand forever.

引用:ANZAC Friendship between Anzacs and Turksよりhttp://www.anzac.com/friendship_between_anzacs_and_turks.html

上記のサイトには、ガリポリの戦い前は決して顔を合わせた事もなかった両サイドの兵士たちが戦時中、抑制された友愛の中で互いに食料やたばこ、写真などを交換しあい人間的な繋がりを築いていった事が写真と共に記されていました。

日本の空襲の場合はそれとは違う背景なので、まだまだ兵役経験者や未亡人になってしまった老人の方の中には癒されない傷が残っているのも事実。

だからこそ、在住者としてアンザックデーを単なる祝日とか海外の行事と軽くとらえるのでなく、歴史を振り返り心から追悼する思いが強くなりました。

又、我が息子は夫側の先祖が「アンザックデー」や「第二次世界大戦」の兵役経験者なので義父母から話を聞きます。

歴史を垣間見る大切さを痛感する日。子供に伝える大切さ。

今は離れて暮らしていますが、当時義母の作ってくれたアンザック ビスケットを思い出しながら、こうしてオーストラリアで国境を超えて家族となった喜びを思い起こしてくれる日でもあります。

アンザックビスケットとは?

アンザックビスケットとは、オーツ麦と小麦粉、砂糖、バター、ゴールデンシロップ、ベーキングソーダ、乾燥ココナッツ、沸騰したお湯を材料とした固めのビスケット。

第一次世界大戦時、ANZACのために彼らの母や妻たちを中心に作られました。

固くて丈夫でおいしくて長旅にも保存が効く事から長期間にわたる戦いの間、兵士たちの自国と繋がる絆としても大切な存在だったビスケット。

ちなみにオーストラリアでは、ビスケットをビッキー”(bikky)と略して呼びます。

まとめ

住む国それぞれで違う歴史があり、それに伴う歴史観も異なります。

アンザックデーをはじめとした「追悼式」が我々に教えてくれることは彼らの犠牲のもとで今の平和があること。

戦争をしたくなくても、仕掛ける側が存在する現実を目の当たりにする今日、平和ボケしてはいけないと痛感する筆者であります。

アンザックデー(ANZAC DAY)の象徴、赤いポピーの花が意味するもの。
アンザックデーをはじめとした追悼式に欠かせない「赤いポピーの花」が意味するものとは?ジョン・マクレーと言う人の詩から語り継がれるこの花の象徴と深い意味を紹介します。
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