先の記事に「アンザックデーで何故赤のポピーが象徴とされるか?」を取り上げました。
背景に第一次世界大戦中、兵士であり医師であり更に詩人であった”ジョン・マクレー”の書いた詩がもとになっている事をお伝えしました。
では、なぜオーストラリアや他の国でも戦争の記憶として「赤のポピー」が広がったのか?
マクレーが詩を書いたのが1915年5月3日。戦死した友人の埋葬を終えた翌日です。
やがてこの詩は1915年12月にイギリス雑誌に発行されました。
1918年、当時マクレーはフランスでイギリス軍の医療支援を行っていました。
ところが戦時中の膨大な医療活動のもと肺炎と脳膜炎を煩い他界しました。
赤いポピーの輪が広がる
その後、休戦前にこの詩を読んだアメリカのYMCA で働くモニカ・マイケルさんがとても感動し、それ以降ジョンマクレーの詩の中で彼がで主張した信念を継続するために赤のポピーを身に着ける決意をしました。
ドイツ降伏と第一次世界大戦終結日
1918年11月に他の国々からの YMCA の秘書たちの集会で彼女は身につけているポピーについて語りました。
それに感化されたフランスの YMCA 秘書が、戦争で未亡人や孤児になった人たちやケアの必要な兵役経験者また残された家族への基金としてポピーを売る事を提案。
ポピーの象徴はどんどん広がりやがて1918年11月11日の「休戦記念日」に戦争の記憶の花として正式に受け入れられました。
オーストラリアではアンザックデーにおいてもポピーが「戦争の記憶の花の象徴」となったのです。
各国で行われる11月11日の休戦懸念日とアンザックデーに皆赤のポピーのバッジを身に着けたり飾られるのはこのジョン・マクレーの詩がもとになっていたのです。
基金活動
アンザックデー前には、さまざまな所で救済のための基金活動があります。
学校でも手作りのアンザックビスケットやアンザックデーと書かれたバッジを販売して募金活動をしていました。
赤のポピーのバッジは毛糸であまれたものやシルクで作られたものなどさまざまな工夫がされています。
一人の書いた詩が今日までこうした活動も加えて受け継がれているように、今後も若い世代に伝え続けていく事の大切さを知らされるポピーの存在です。