「どこに身を置こうとも タフに生きられたら物事が楽に進むだろうな。。。」
しばしば どんな状況でも 落ち込まずにガンガン前を進む人を羨ましく思ってきました。
そして、私が人生半世紀に渡って いろんな経験をした中で、まさに今 思う事。
切羽詰まったり、どうにもならない状況に身を置くと
おのずとタフになってくるもんだ!゛
゛所かわれば品変わる゛という諺にあるように 住む土地が変われば習慣や文化、方言も変わり、また何よりも 職種や置かれた立場、物事の「価値」もさまざまである事を身をもって感じています。
「今まで普通だった事」が「大変なチャレンジ」になったり、
「今まで通用してきた事」が あんまり役にたたなくて
「新しく通用する事を見出す」必然性に迫られる経験。
これは、時にして
「自分自身の価値のなさ」
を痛感させられるのです。
それでも、嘆いてばかりいられない!
あるところまで落ち込んだら 最終的には開き直りから
「この小さな成果も自分にとっては一つの成長」
と
「他人からの評価を価値にするのではなく、
自分自身のその状況において出来る事への価値に気持ちを切り替える」
事でどうにか立ち直ってきました。
ところがオーストラリア在住歴も10年を迎えた2013年の8月、私たちは人口わずか5,000人余りの内陸にある田舎町に家族と共に引っ越すことになったのです。
まさかそこで暮らすことになるとは全く予想をしませんでした。
私だけに限らず、何らかの理由で 住み慣れた場所を離れて新しい土地で生活を始める事は、新たなチャンスでもあり 知らない土地柄ゆえに戸惑う事も多々ありますよね。
国内であれ国外であれ、引っ越す事になったきっかけが
゛進学゛や゛留学゛、或いは ゛新しい仕事゛
だったり、
゛自分自身の目標追求線上゛
にあったなら それに向かってのワクワクした準備期間もあると思います。
ところが、突然の
「予期せぬ希望しない転勤」
「結婚相手の仕事や親族の関係」
「何らかの事情で自分では選べない場所へ移り住む」
となると、心の整理もなかなか出来ないまま、見知らぬ土地での生活を強いられる事も。。。
゛田舎暮らし゛はタフ訓練の始まり
私はもともとオーストラリアの都市生活が一番長くて約8年、その他に2回ほど「田舎町」での生活も経験しました。
田舎暮らしは両方とも「人口約1万人」ほどの小さな町で、一か所は内陸地に約2年、もう一か所は海の綺麗な町に約1年滞在しました。
語学留学を経て国際結婚当時は、都市に住んでいた事もあり日本人妻も多く、国際空港もあり里帰りも便利、買い物も便利、日本人である事を活かせる仕事もたくさんありました。
頼れる人が周りにたくさん居た事もあって、初の海外生活スタートはとってもスムーズ。
一方、その後の田舎町では全く環境が変わって日本人は私を含めて二人だけ。
信号もない、大きなショッピングセンターも都市まで約2時間かけていく必要がありました。
それでも この2箇所の選択は、少しでも自分たちにとっていい方向に進むことを願って ゛自分たちで選んだ場所゛でした。
田舎で日本人は二人だけとは言え、仕事や育児を通して 同じような境遇の人たちも多かったので 新しい友人がたくさん出来、輪が広がりつつありました。
「自分に出来ること」「自分の立場」が明確だったので「ここで何が出来るんだろう?」と思い悩む事はありませんでした。
突然やってきた環境変化は「とても狭い世界」だった
さて、その後に引っ越したのが3回目の‘田舎町’。
今までで一番人口の少ない場所です。日本人も私一人だけ。
「農牧場が盛んな土地」なので、代々続く家族経営者やその親族たちの繋がりが強く、そこからの出会いで「〇〇の旦那の妹が□□の長男と結婚」と言う具合で狭い土地柄、良きにしろ悪きにしろローカル事情を知り尽くしている人が殆どです。
私達のような都市からの引越し組に出会う事はほとんどなく、あったとしてもやはり「農牧場経営者」で既に在住暦10年を超えた地元に根付いた人や、転勤族の私立学校の先生くらいです。
この引っ越しは、今までのような「やりたい事がそこにある」とか「もっと状況をよくする為にそこへ行く」と言った100%希望しての移動ではありませんでした。
むしろ、突然やってきた環境変化でした。
そこに引っ越した理由
当時の状況は、遠隔地で働く夫の移動の負担軽減と家族と過ごす時間を増やす為に、長年住んでいた都市を離れて海の綺麗な田舎町へ引っ越して、ローカルの人たち、ママたちにも溶けこんでそこでの生活に慣れてきた頃でした。
そのわずか8か月後に夫が突然のリストラで職を失ってしまったのでした。
その業界全体が大不況の波に突入してしまったのです。
私も育児中で無職、突然収入源が絶たれてしまった中、次の職探しをするものの周りもリストラにあっていて前途多難な状況でした。
いろいろな事情を抱えていた私たちに、手を差し伸べてくれたのが夫の母だったのです。
「もし そっちで仕事がみつからなかったらここにおいで。昔私たちが住んでいた家が空き家になっているから。もう一度 ファミリー一緒に時間を過ごしましょう。仕事はどうにかなるわ。」
この言葉がきっかけとなったのです。
そこには、夫にとって今までのような充分やっていける分野の仕事があるとは思っていませんでした。
でもそこに「住ませてもらえる家がある」と言うのは、なかなかいい仕事が見つからなかった私たちにとって一番の助け舟でした。
また、息子にとっても「義父母やいとこ達と過ごせる貴重な時間」を作る、最初で最後の機会でした。
所変われば出来る事も変わる
さて、少しでも前をむいて再出発をしようとするにもかかわらず、ここで「自分に出来る事」がなかなか見つかりませんでした。
「やりたい事」と「出来る事」のギャップ。
「需要のある事」と「出来る事」のギャップ。
やっとの思いで「見つけた出来る事」が上手く事が運ばずにお流れになったり。。。
「自分の価値」とか「居場所」がなかなか見つからずにジレンマが続く日々。。。
乾燥地に耐え続けた゛野ばら゛から学ぶ
きっと順調な生活ばかり続いていたら見えなかったり、感じなかった事がたくさんあります。
それは自然災害で突然、生活環境を変えざるを得なくなって、改めて普通の生活がどれだけありがたいか気づかされるように。。。
又、被害にあった悲しいニュースを見て、自分が無事に生活出来ている事がどれだけありがたいか感じるように。。。
そんなある日、そこに来てから約1年たった頃です。
ずっと咲かなかった゛野ばら゛がついにつぼみを付けたのです。
この写真は、その野ばらのつぼみです。
引っ越してきた時は、蕪だけの状態でした。
水やりを続けているうちに茎と葉が育ったものの、義姉からは
「もう花は咲かないから抜いて新しい苗木を植えたほうがいいわ」
と言われていたのです。
それでも何となく、茎と葉の緑が心地よく、わずかながらも水やりを続けていました。
遂に花を咲かせてくれた時、
「こんな水不足の乾燥した所なのに ずっと我慢してパワーを蓄えていたんだ。。」
とその生命力に感動しました。
そして、それは普通のよく見る大輪のバラではなく、小ぶりの平べったいタイプながらも、この乾燥地に耐えるにふさわしい濃いローズピンクでした。
とても淡い色だと太陽に焼けてしまいます。
この時に
「自分にあった土地でなくても、いつか慣れてきて転機が来るはず。自分の居場所とか、立場とか、出来ることが見えてくるまで今は焦らずにパワーを蓄えよう」
と半ば「タフに開き直るきっかけ」となりました。
きっと恵まれた環境のもとでなら゛花が咲いた゛という事にさほど意味も感動も味わなかったと思います。
実際、今まで住んでいた土地は ゛水不足゛どころか、いつも緑と色とりどりの花に囲まれていたし、何より生活自体が便利でたくさんの選択肢もありました。
この決して便利とは言えないながらも大自然の中での生活体験が
゛小さな事でも出来る事を見つける、なければ作り出す゛
方向へ私を導いてくれました。
要は、゛タフじゃなければ やっていけない゛事が多い。
すごくポジティヴ思考へ変換の訓練!
これも縁あっての゛意味のある経験゛であるはず。
こうして海外生活で得た、いろいろな経験を発信して何かしら必要とされる方のお役にたてるなら、それも少しだけ「そこで私に出来る事」の醍醐味です。